残る写真と残らない写真
残る写真と残らない写真の違い
【写真考】
まだ少し先の話だけれど、引越しをすることになった。そこで書かなきゃ!と思ったのがこの“残らない写真”考。
引越しのどこら辺が写真と関係あるねんと言われると思うけど、ここから頑張って結びつけて書いていきますのでお付き合い願います。
残らない写真
まず残らない写真というのにもいくつかあると思う。
1.そもそも写真を撮らない
「そもそも写真を撮らない人」というのはもちろんいて、その人の周りの物事や風景はまず写真に残りにくい。
2.写真が拡散されない
写真は撮るけれど自分のフォルダにあるのみで、SNSやHPに拡散することなく留め置かれるものは、その個人がいなくなったら残らない写真になる。ネガやプリントが残りやすかった銀塩フィルム時代と比べて、いまどきのデジタル時代写真は指紋やパスワードが無いアクセスできなかったりするのでなおさらではないかな。
3.写真が上手でない
これは上記の2つとは次元が異なってしまうのだけど、書いておきたい。写真がどこかしらに拡散されると、当然上手い写真は多くの人に評価される。どこかで保存されるかも知れないし、「昨日いい写真をあげてはったな」と記憶に残るかもしれない。その一方で、僕のような甘アマが撮るような写真はタイムラインの河を流れてくだり、インターネットの海に沈むのみである...。
残る写真
逆にとても残る写真として、観光地や名所の写真というのがある。そもそも大勢の人が撮るし、上手い人も撮るし、ネットや書籍でガンガン拡散もされる。
夏前にじいちゃんが死んだ時にアルバムを整理していて、父親が子供の頃に奈良へ家族旅行に行っていたときの写真が出てきたのだけど、興福寺の光景がまったく変わっていなくてびっくりした。
そりゃ1200年間そこにある興福寺からすれば50年くらい大した年月ではないのかもしれないけど、その間ずっと多くの写真に撮られて変わらない姿を見せてきたのだなと ちょっと感じ入ってしまった。興福寺だなんて超名所の写真は1.2.3.のどれの影響も受けないのだと思った。
もっとも残らない写真
ようやく引越しと写真の関係の話になりました。
上に書いた1と2の話、それから興福寺の話から考えて、じゃあ僕の思うもっとも残らない写真の1つは、“個人が住んでる部屋”なのではないかなというのがこの文章の始まりなのです。
引越しにあたって写真のことを考えたのもそれが理由で、いま住んでいるこの部屋はどこかに残るだろうかと考えると、これがやはり残らない。寮だから誰かが遊びに来て撮った写真もないし、僕個人の記憶の中にしか残らんやんけということに気づいたのです。
学生の頃、誰だったか教授が「観光名所の写真は多く史料があるけど、街の昔のそこらへんの姿はなかなか分からない」と言ってた話もこういうことなのかなと思う。
東京から神戸に帰ってきて住んだこの街この部屋は自分の中にしか残らない。 上には休日の午前中の部屋の壁のフィルム写真を貼りました。せめてあと2ヶ月、いま雰囲気いいなという瞬間くらいは残していきたいなと考えています。
立地だけはよいけど日当たりも悪く狭いこのボロ寮を。